大学の存在意義はなくなるのか2017/11/30(木)
Yahoo! ニュース、前屋毅さんの記事。インターンシップの低学年化は確かに進行しつつありますね。
大学1、2年から就活で大学の存在意義もなくなる(前屋毅) - Y!ニュース https://t.co/Tu1NMDucWo
— 前屋 毅 (@zen_ki) 2017年11月29日
大学に入学したら即就活、というわけだ。学生の本分は学業などとは、冗談でしかなくなる。大学の存在意義も薄くなる。就活の激化で、大学そのものが不要となりかねない。
大学の存在意義は最近いろいろな形で問われ続けていますが、ここでは「大卒生の就職」という視点に絞って考えたいと思います。そもそも、企業は大卒生に何を求めているんでしょうか。
以前にも少し書いたことがありますが、某大企業の人事担当者(を自称する人)が「重要なのは『その大学の入学試験に通った』という事実だけで、大学で何をしたかなんて誰も興味ない」と語っていたことがあります。また、体育会系の部活動をしていた人が就職で有利なのは「先輩に対する礼儀がきちんとしていて、体力があり、ハードワークに耐えられるから」だと言われています。いずれの視点も、大学での「学業」には全く意味を見出していない、という点で共通しています。
大学というのは元々は「学問をするところ」です。しかし、「学問」を生業にする人は世の中にほんのわずかしかいません。ですから、その他の大多数の人にとって、「学問」をすることに何の意味があるのか、ということが問題になります。この問題に対する答えが見つけられていないから、「大学の存在意義は何なのか」という議論になってしまうわけです。
私の考えでは、大学で学生が「学問をする」のは、「事実に基づいて客観的・批判的に物事を見る」というトレーニングを受けることです。文科系の学問の場合は、「事実」のところが「さまざまな立場の意見」に置き換わることもあります。実社会においては、社会的慣行や組織の力関係など、「客観的事実」以外のさまざまな要因が存在しますが、そういうものをいったん脇に置いて、いわば「理想化した環境」のもとで結論を導き出すのが、「学問」の役割なのです。これができるようになるには、かなり厳しい知的トレーニングが必要です。普通に「何となく」物事を見るのでは、「客観的事実」と「そうでない要素」を分別することができないからです。
企業が大学での学問を軽視している、というのは、「事実に基づいて客観的・批判的に物事を見る」ことを軽視していることに他なりません。最近、日本を代表する大企業において、不都合な事実を長期にわたって隠蔽してきた事例が続々と発覚しています。これまで大企業で行われてきた採用人事の傾向を見れば、これは必然の結果といえるでしょう。「大学での学業を重視しない」のは「批判的精神を育むことを奨励しない」ことであり、「先輩に対する礼儀を重視する」のは「組織や上司への盲従を良しとする」ことです。そういう人が選ばれて集まった組織が、自浄能力を備えることはなかなか難しいでしょう。また、複雑さを増す現代社会では、「客観的事実に基づく議論」に不慣れな人が舵取りをする企業は、生き残ることが難しくなってきます。
これから社会に出て行く学生のみなさんには、大学できちんと学んで、「客観的事実に基づく批判的精神」を大いに身につけていただきたいと思います。ただ、実社会では、必ずしもそのような「客観的な批判」が通じる相手ばかりではない、という現実もしっかりと見据えておきましょう。両方の視点が備わっておれば、難しい事態に直面しても、切り開く力が出てくるはずです。