高校英語の教材2019/07/25(木)
先日、事情があって高校英語の教材を見ていました。半ページぐらいの文を読んで設問に答える問題です。その文が、なかなか難しい。例えば "..., whether it be a team, a company, or society in general." というような文が出てきます(記憶に頼って書いているので不正確かも)。おお、仮定法現在だ。今でも使う人いるんだ。いつ書かれた文章だろう、と思って出典を辿ると、1991 年出版の本でした。そんなに古くない。国語の教育では20世紀前半の文章でも平気で「現代国語」のカテゴリに入ってますから(たとえば芥川龍之介の「蜘蛛の糸」は1918年の作品)、1991年なんて現代英語の真っ只中といってもいいでしょう。
たぶん、高校生の人は、こういう文章を読まされるとうんざりするんじゃないかと思います。「もっと易しい言葉で言えるんじゃないの」と言いたくもなるでしょう。上の文は「それがチーム、会社、あるいは社会一般のどれであるとしても」というような意味ですが、直説法を使って "whether it is ..." でいいんじゃないの、と。確かにそうだし、自分の言いたいことをなるべく平易な言葉を使って表すのは大事なことです。
でも、一方で、ちょっとひねった言い回しを正しく理解できる力も、やはり大切だと思うのですね。言葉を使う能力の高い人から見れば、直説法と仮定法には「ニュアンスの差」がある(のだと思います)。筆者は、自分の言いたいことをぴったりと表す表現はこれだ、と考えた上で、そういう表現を選んでいるわけです。この表現を正しく読み取れるかどうかは、読者の読解能力に委ねられている。読者の能力が不十分だったら、筆者が考え抜いて投げかけた言葉が、受け止められずにこぼれてしまうことになる。サッカーで中盤の選手が渾身のパスを出したのに、前線の選手がヘボかったために得点につながらなかった、というのと似た状況になるわけです。
質の高いコミュニケーションを行うためには、送り手と受け手の両方が、言語の能力を磨かなければなりません。なるべく易しい表現で、と心を砕くことは、送り手としては大事なことかもしれませんが、受け手としての能力が育たないことにもつながります。そうすると、言語能力の高い人たちのコミュニケーションについて行けなくなってしまう。これはかなりまずいことですよ。
教養のある英語話者と接する機会があったとしましょう(ちなみに、国際的なビジネスの世界では、力のある人はたいがい高い教養を持っているとされています)。英語でコミュニケーションをするとき、「どのレベルの英語を使うか(使う能力があるか)」で、あなたの教養の程度がかなりの部分測られています。「この人はあまり教養がないな」と判断されたら、質の高いつきあいは絶対にしてもらえないでしょう。大きなチャンスを逃すことにつながります。
最初の話に戻すと、高校英語の教材として、あのような「ちょっと厄介な文」がいまだに取り上げられているのは、喜ばしいことだと思います。なんでこんな厄介な表現が存在するのだ?という疑問から、言語表現の多彩さや奥行きに気がつくきっかけが生まれることもあるでしょう。日本語の表現との対比を通して、日本語表現の奥行きにも思いをいたすことになるかもしれません。言葉を操る能力を高めることは、自分の可能性を広げることです。辛抱して勉強しましょうね。