Meijo University Faculty of Human Studies Laboratory of Shozo KAMO
Afrique contemporaine, « Côte d’Ivoire, le retour de l’éléphant ? »
Numéros doubles 263-264 (2017-3/4)
合併号は『アフリック・コンテンポレーヌ』誌の歴史の中でとても希なことである。この合併号全体が、書評欄を除いたあらゆる項目を通じて、コートジボワールの特集号となることも特別なことである。また、これが遅まきながらという面もある。実際にアフリック・コンテンポレーヌ誌は、2003年以来コートジボワールに関する特集を組んでいない。2003年とは、その後10年あまり続く政治安全保障上の危機と分裂を引き起こした年である。その時から状況は大きく変化した。この合併号は何とか間に合うことができたというところである。それは、かつての西アフリカを代表する国の重苦しい年月について最終的な総括を作成するということにではなく、現在進行中の変化の多種多様な側面を研究することにである。
合併号であるということはすなわちまた、コートジボワールがフランスと特権的な関係を維持し続けてきたことを強く認識させることになる。独立以前、コートジボワール大統領フェリックス・ウフェ=ボワニは、コートジボワールとフランスとの関係について「フラサンサフリック」(françafrique)という表現を考案した。当時、この新造語に軽蔑的な意味は全くなかった。政治外交的関係の発展、経済的紐帯の緊密さは、2002年末のユニコーン作戦と銘打ったフランス軍の介入まで続いた。その後の一連の事態も、この少しばかり「特殊」なステータスを否定することはなかった。
コートジボワールは、アフリカにおけるフランスの勢力圏の中の白眉であり、常に別格の扱いを享受していた。コートジボワールは、今日でもなおパリで、外交上優先的に扱われている国である。たとえ、英語圏アフリカ諸国、すなわちナイジェリアや南アフリカが、フランスとサハラ以南アフリカとの経済的な取引において第一義的であるにもかかわらずである。OECDによれば、コートジボワールはフランスのODAを最も多く供与されている国である。コートジボワールに在留するフランス人は、1980年代の45000人から、危機の時期には8000人にまで減少したものの、再び増加しており、2015年には16000人を超えている。その半数はフランスとコートジボワールの二重国籍者である。
しかし、コートジボワールの象による復興はまだ成し遂げられていない。象は、サッカーナショナルチームのトーテミズム的エンブレムになっているが、政治、社会、経済の最前線での試合すべてで勝利を収めているわけではない。「象牙性(イヴォワリテ)」という毒が、もはや完全に消滅したということではない。国家の物語は常に進行中であり、南部のキリスト教徒と北部のムスリムに分断された国の、度を越した偽りの代表たちは、事実を認めないことで支持を失っている。
象は、周知のように、多くのことを欺いてきた。コートジボワールが全ての約束を果たしていないことに異議はないであろう。コートジボワールの発展は、これまでの努力や、年によっては8%を超える素晴らしい経済成長率を記録したにもかかわらず、包括的ではほとんどない。数百万人の人びとは繁栄を享受できていない。近刊のコートジボワールの経済的展望に関する報告書は、「パラダイスの扉」というタイトルである。このタイトルは世界銀行が取り上げたものの、どちらかといえば新自由主義的な蜃気楼、さらには選挙のための約束事にすぎない。
本合併号は、国籍が多様な40名以上の執筆者からの寄稿によって、粘土の足でできた象、つまり土台のしっかりしてない象のアンビバレンスを分析する。一方で、コートジボワールは若くて活動的な国である。コートジボワールでは、2011年にアラサン・ウワタラが権力の座について以来、急速かつ特筆すべき変化が起こっている。将来キリスト教徒よりもムスリムの人口が多くなる国で、ウワタラは最初のムスリム国家元首である。しかし、コートジボワールは、平均寿命が52歳前後で頭打ちとなっている国でもある。コートジボワールはまた、移民受け入れ国でありつつも、海外への移民送り出し国となっている。2017年にイタリア沿岸部へたどり着いた西アフリカ出身者の中で、コートジボワール国籍者は3番目に多かった。こうしてみると、コートジボワールはコントラストの激しい国であり続けているといえる。アビジャンからブアケに至るまで、内戦によるすべての傷が癒やされているのではない。
現時点でコートジボワールの曖昧さは、全てのレベル、つまりグローバルなレベルからローカルなレベルまで認められる。まず国際的には、コートジボワールは冷戦時代、アフリカにおける西側諸国の中心的な支柱であった。しかし、コートジボワールの外交政策は救世主的では全くなく、コートジボワールがアフリカに何らかのリーダーシップを発揮するための地位を求めることも決してなかった。今日、コートジボワールの経済的金融的力が、事実上の影響力をある程度、フランス語圏西アフリカ諸国にもたらしている。しかし例えば文化面では、コートジボワールはセネガルに比べると活力があるとはいえない。セネガルは、フランコフォニーの国際ネットワークや、国連機関、国際メディア、国際的なミュージックシーンで、ポストや地位を占めることに成功している。
国内的には、脆弱性が依然として顕著である。2020年の大統領選挙は、「コートジボワールの象」が沈静化し民主主義への扉が開かれたか否かを確認するための試金石となろう。特にコートジボワールは、2015年のナイジェリアの事例とは対照的に、必ずしも選挙による政権交代を経験したとはいえない。2000年の大統領選挙は、高い棄権率と暴力という爪痕を残した。2010年の大統領選挙は、流血の惨事へと至った。2015年の大統領選挙は、野党勢力の一部がボイコットする事態となった。したがって2020年の選挙は、コートジボワールの政治階級が自ら刷新して若手に継承することができるかどうかを検証する機会となろう。
地方に関しては、地域間の対照性が際立っている。ブアケの停滞とアビジャンの活気、そのアビジャンでも、ラグーン地域の近代的な街並みとギャングが蔓延り華やかさに乏しい庶民街が同居している。対立に関しては、これまで考えられていたのとは異なり、北部と南部という軸にのみ存在するのではなく、東部や西部にも存在している。それはガーナ国境に沿った森林地域に暮らすアグニ人や、リベリアに向かうバウレ人とブルキナファソ人移民との間で土地をめぐる緊張状態を経験したヴェ(ゲレ)・ランドである。
コートジボワールは、経済の中心地やラグーンの摩天楼が印刷されている絵葉書に収斂されてはならない。本合併号は、刷新されたばかりの執筆陣により、そうしたコートジボワールの複雑さについての研究へと誘う。また、まもなく、インターネットサイトCarin.info上で、本誌のすべての項目にアクセスできるようになる。
『アフリック・コンテンポレーヌ』誌は、次号限定ではあるものの、特集を組まない論文集として出版される予定である。次々号は、これまでアフリカ諸国が辿ってきた産業の発展を扱うことにしている。
(特集論文の一覧のみ掲載します)